京都の龍安寺という禅寺にこの言葉が刻まれた蹲踞があります。
龍安寺というと有名なのはどこから見ても全ての石を見ることはできないとされる石庭でしょう。こちらも美しいものではあるのですが、この蹲踞も私たちが生きていく中でとても大切なことを説いています。
円形の中心に正方形の窪みがあり、手を洗うための水がためられている部分があります。この四角形の上下左右に上から五、左に矢、右に隹、下に疋が描かれており、中心に四角形が口偏を表すことで吾唯足知という熟語になるようにデザインされています。
この蹲踞は水戸光圀公が寄贈したとされているそうで、吾唯足知の由来は仏教の開祖であるお釈迦様が遺言として唱えたお経である佛遺教経に記されている
知足の者は,賤しと雖えども富めり
不知足の者は富めりと雖も賤し
から取ったとされています。
知足とは禅語で足ることを知るという意味です。この言葉を簡単に説明すると、
自分がすでに十分持っていると知っている人間は、例え貧しくても豊かなのだ、逆に自分がすでに十分持っていることを知らない人間は、例えどんなにお金持ちであろうと貧しいのだ、ということです。
人は、自分の価値を財産で計ろうとします。どれくらい多くのお金を持っているのか、或いはどれくらい多くの物を保有しているのか。お金持ちはえらく、お金を持たない人は貧しく思われます。物も同じように、たくさん持っていることが人としての価値を決めるかの如く考えている人が多くいます。
古代ギリシャの哲学者エピクロスやアイマラ民族などは、こんなようなことを言っていたそうです。
「貧乏とは、少ししか持っていないことではなく、限りなく多くを必要として、もっともっとと欲しがることである」と。
現代は消費社会です。私たちは知らず知らずのうちにこの輪の中に組み込まれてしまい、その環境の中で生きてきているので物を買い、消費してはまた新たな物を買うことを当たり前としています。
10年もつ電球があるのに、わざと数年で寿命が来る電球を買っては買い替えを繰り返します。10年以上しっかり走る車を買っても数年に乗り換えます。高い物を買うためにローンを借りて、今度はローンを返すために働くのです。そうやって何十年も生きて、最後に死ぬ時、こんな人生で良かったのかと疑問を持つかもしれません。
何のために生まれ、生きているのか。幸せになるためではないのでしょうか。物を買うためにやりたくもない仕事をして、精神的に疲れてまでお金を集めて、それで何が欲しいのでしょうか。高級バッグですか、かっこいい車ですか、豪邸ですか、これらがあれば幸福に生きていけるのでしょうか。
物を求めてせかせか働き心を亡くすと人生はとてもつまらないものになってしまいます。せっかくお金を貯めても物を買ってしまうと無くなってしまいますし、貯め込むと今度は減ることを恐れて使うことがストレスになってしまいます。
他人は持っているのに自分は持っていないという不公平感が物欲の衝動となり、いつまでも何かを欲し求め続ける人生は、確かに豊かとは言えないのではないでしょうか。足るを知るというのは、勘違いしている人が多いですが不相応に過ごせという意味ではありません。
雨風しのげて安心して眠れる場所があり、身にまとう服を持ち、ちゃんと食べ物を食べられれば、人は最低限の生活を営むことができます。そして友人や愛するものに囲まれていれば、それで実は物足りているはずなんです。つまり、もう十分満ち足りているのです。
十分足りていると知ることができれば、人に分け与えることもできるようになります。五体満足でおいしいものが食べられるなら、もうそれで十分に幸福になる条件は満たしているはず、人生で何が一番大事なのか、車やバッグではないのは確かでしょう。
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