禅とミニマリストの求めるところには、かなり近しい共通点というか近しい目的があることが分かりました。
その共通点とは「人生で大事なことに集中する」というもの。
ミニマリストは所有している物の中で、生きていく中で必要ないと判断したものを手放して本当に必要なものを選択、認識することを目的としています。だが、ミニマリストが捨てていくのは物だけではない。物に付随した感情や人間関係、執着といった形のないものも含まれるのです。
現代の消費社会は、人間の限りない欲望をターゲットとし、常に買わせるための仕掛けを作ることで経済を回している。人は物を買うと、それによって物に意識は支配される。何かを買えば、また別の新しい何かが欲しくなるのだ。そして、今度はその新しいもののためにお金を稼ぐことになる。
お金を稼ぐには自分の時間を犠牲にする必要がある。そうやって自分の時間を切り売りして手にした僅かなお金を貯めて、新しいものを買うのだ。しかし、それで満足することはない。再び時間が過ぎれば買ったものは古くなり、また新しく色々と今のものよりも新しい機能がついていたり付加価値がついたものが出れば、今度はそっちが欲しくなる。
消費社会は、決して満たされることのない人間の所有欲をうまく引き出してものを買わせる。それがその人の人生にとって必要かどうかは関係ない。新しい機能も、強化されたシステムも、その人にとって生きていく上で必要なのかは問わない。ただ、物を買えば今よりも生活が良くなるとか耳障りの良い謳い文句を囁いて購買意欲を掻き立てるのだ。
人は、物やサービスを手に入れるためにお金を稼ぐことになる。本当に自分の人生に必要かどうかよく考えもせず、手に入れば便利だから、日々の生活が楽になるからと、せっせと働いて小銭を稼ぎ、なんとか貯めて物やサービスを買うのだ。
しかし、常に物やサービスが進化し続けるかぎり、終わりはないのだ。手に入れても、また次の新しいものが欲しくなり、そのためにお金を稼ぐことになるのであれば、人はなんのために生きているのか分からなくなるだろう。簡単なことだ、物やサービスを手に入れ、安心や満足を得たいだけなのだ。
禅の教えは、これを否定するものだ。仏教的な教えとして、人の欲望には際限がないとしている。次から次へと、もっともっとと多くを求め、一度求め出したら切りが無くなる。ヒマラヤ山脈の全てを黄金に変えても人間の欲求は満足しないとは釈迦の言葉であるが、全くもって現代でも通じることだとわかる。
連鎖する際限のない欲望を断ち切るためには、そもそも物を持たなければ良い、というのがミニマリストの根本にある。人生で必要のないものは思い切って全て手放していくことで、手元に残るものは生きていく上で本当に大切な物だけなので、自分の人生が明瞭になるという考えだ。
禅には知足という言葉がある。吾唯足るを知るという有名な言葉だ。意味は「自分は既に十分に持っているということを知っている」という意味である。つまり、もっともっとと求めなくても、既に今の時点で十分に必要なものは揃っているということなのだ。
根本的な問題として、人は何故多くの物やサービス、お金などを欲しがるのか、という部分である。これは、物やお金をたくさん持つことで、「安心」や「満足」が欲しいのだ。考えてみて欲しい、お金が沢山あれば安心だろう。物が沢山あれば満足だろう。人はお金や物の多さで今までの自分の功績を讃えたいのだ。
だが、この物質的要因にこだわる限り、前述した欲望による負のスパイラルを断ち切ることはできない。「安心」や「満足」は、お金がいくらあっても満たされることはない。一文なしの人は、100万円あれば満足な生活が送れるのにと考える。だが実際に100万円を手に入れると、500万円ないと満足な生活は送れないと考える。500万円を貯めると、1000万円はないと不安だと思うようになる。1000万貯めれば、3000万くらいは欲しいと思うようになる。そして、お金を貯めれば貯めるほど、今度は失う恐怖が強くってしまう。
お金というのものは、確かに生活を満たす上で大事なものだが、沢山あったところで実際はあまり価値を生まないのだ。ただ不安と欲望が増すだけなのだ。お金持ちになりたいという発想自体、お金に執着している証拠である。
物も同じだ。最新の家電、ハイテクな携帯電話、高級な衣服やバッグ、車。大きな家。これらが我々に与えてくれる幸福感はおそらく1ヶ月と持たないだろう。そして、しばらくすると新しいものが出てきて、持っているものは古臭いものになってしまう。だからまた新しくものを買わなければいけなくなる。結局のところ、物を買うということは、限りない物欲を生み出すスタートなのだ。
ミニマリストは、これを理解するので、必要最低限のもの以外は持たないようにする。時代の流れに関係なく、常に変わらぬ価値を提供してくれる王道の物の方が持ちがいいだろう。
つまり、物やお金を持ち過ぎれば、それに囚われ、いっときの幸福感の後、大きな不安感に苛まれることになる。だからこそ、不要なものを削ぎ落とすことが必要になる。
消費社会の罠から逃れることで、物欲から開放されるのが、ミニマリズムの目指す部分である。そして、本当に大切なことに集中するための通過点である。さて、人は安心や満足感が欲しくて物やお金に固執するわけであるが、物やお金を介さずにどうやって安心や満足感を得るのだろうか。
この答えは、何千年も前から既に明かされてきている。あらゆる偉人や哲学者がその答えを口にしているのだ。つまり「他者への貢献」である。
人は、誰かの役に立った時、なぜか満たされた気持ちになる。誰にでも経験のあることだと思う。つまり、これは満足感に当たるわけだ。好きなものを買えば、一瞬だけでも満足感を感じられるが、人の役に立つことでも満足感を得られるのであれば、どちらがより良いだろうか。考えまでもない。人の役に立つことで満足感を得れば、お金はかからないのでお金を稼ぐ必要性が減る。人から喜ばれるので人間関係も良くなる。ものを買うことで満足を感じるのは一瞬だけだし、喜びは自分の身でありそれ以外に特にない。
お金を持たなければ不安になるのは、将来万が一お金がなくなったら生活ができなくなるかもしれないと考えるからだ。衣食住に困ったり、病気や怪我をした時に、対処できなくなってしまうことを恐れている。
だが、もしもあなたに沢山の友人がいればどうだろうか。お金がなくて衣食住がままならなかったとしても、友人の誰かが着る物、食べるもの、住むところを提供してくれるかもしれない。病気になった時や怪我をしたときにも助けてくれるかもしれない。どうだろうか、そう考えれば、お金はそれほど大切ではなくなるのではないだろうか。
安心や満足感を満たすためにお金を使うのではなく、人間関係によって満たされるのであれば、実はお金などは最低限あれば特に問題ないことに気づくはずだ。そうなってくれば、お金はそんなに必要ないのだ。物も最低限度生活に必要な物があればそれ以上はただの無駄な贅沢でしかない。
要するに、あなたが消費社会から離れ、人に貢献することで自身を満たせるようになれば、もはや物やお金に執着する必要はなくなる、必要以上にお金を稼ぐためにあくせく自分の寿命を削ることもせず、やりたいことができるようになる。
ミニマリズムや禅は、自身が本当にやるべきことのために、不要なものを取り除くことを説いている。人生の目的とは何か、かのアインシュタインは「他人のために尽くすことが生きる価値だ」と語っている。人生の目的が他人のためにすることであるならば、もはやゴールは見えているのでないか。ミニマリズムを意識し、知足を理解し、自分が既に生きるために必要なものはほとんど持っていると理解したとき、もはやお金や物を多く求めることはしなくなる。そうなれば、今までそういった無駄に使ってきた時間やお金に余裕ができてくる。そして、その余裕ができることで、他人に貢献する活動ができるようになる。
禅は大事なものに集中するための修行だ。あれもこれもだと脳は疲弊し、集中力は保てず、結果どれもが曖昧に終わってしまう。一つのことに集中して物事にあたり、一瞬一瞬を大事にする。過去はどうでもいい、未来もどうでもいい。とにかく今を良くする事に全力を捧げる。そうすることで本当に大事なものは見えてくるし、それ以外の何が無駄なのかわかってくる。そうなればあとは大事なものにただ集中するだけだ、難しいことはない。
最終的なまとめをすると、禅やミニマリズムは、人生で本当に大切なこと(他者への貢献)に集中するために、不要なもの(物や金、過去や未来への不安といった感情)を手放すための手段を提示するものである。
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