マルクスの『資本論』には、「価値」と「使用価値」というものがあります。これは商品やサービスの値段を決める条件として掲げられる要素です。
価値とは、労力のことです。その商品やサービスを提供するためにかけられた時間や労力が多ければ多いほど価値は高くなる、値段は高くなるという事です。
使用価値とは、その商品やサービスを利用することでどれだけのメリットがあるか、という事です。これは古くに著作された経済学の内容ですが、現代の私たちのビジネス感覚の無意識もうまく説明できる非常に的を得た考え方です。
資本論の考え方で説明すると、価値を決める基準は労力です。どれくらいに人数で、どれくらいの時間をかけて生み出されたものなのか、これが価値の大きさを決める判断基準です。わかりやすい例を言えば、1時間で作ったカレーよりも、3日間寝かせて作ったカレーの方が価値は大きいのです。
言われてみるとなるほど、と思いませんか? 仮に味がそこまで大きな変化をしていなくても、なんとなしに3日かけて作ったカレーの方が価値があると感じませんか? この考え方が資本論でいうところの価値です。
使用価値は、そのままの意味でどれだけのメリットが得られるか、という事です。カレーを食べれば美味しいですし、パソコンを買えばインターネットが出来たりブログがかけたりプログラムをする事だって出来ます。これが使用価値です。
値段を決めるのがこれらの要素であるとすれば、非効率でも時間をかけて生み出したものには高い値段がつけられるということになってしまうようにも思えますが、実際はそうはなりません。この場合、社会平均の考えが適用されます。
前者のカレーで表現するならば、社会通念的にカレーの相場というものはある程度決まっています。どれほど美味しいカレーだったとしても、だからと言って一皿に10万円を払う人はいないでしょう。そこには、カレーは大体どんなに高くても○○○円だろうという通念があるからです。
価値はその通念からベースとなる値段を決め、それ以上の値段の高い安いを決める要素が使用価値、ということになるわけです。
商品やサービスにこの考え方が適用するとなれば、私たちが普段雇われ仕事をしているときに会社に提供する労働力も、商品と同じなのです。つまり、労働力は価値や使用価値の考え方で推し量ることができるのです。
労働力は商品です。これを先程の価値の考え方で理解していきましょう。価値はその商品を生み出す労力で決まります。料理であれば具材の仕入れ、調理、お店の場所代もかかりますので、それらが考慮されて価格は決まります。
では労働力の場合は何かというと、労働力を提供するために必要な費用です。人が労働をするためには体力や知力が必要になります。なので、食事をするための費用、睡眠を取るための住居の確保の費用、ストレスを発散するための費用、衣服の費用、知識をつけるため・勉強するための費用。これらの費用の合計が労働力の価値となります。その結果としての給料です。
もちろん人によって費用の大小は様々です。なので、社会通念的に考えられる手間賃が適用されることになります。味気ない言い方ですが、これが給料です。会社は労働力を提供するために必要な費用を給料に加えているのです。
通勤するためにはお金がかかるので交通費が支給されます。家に住む必要があるので住宅費があります。資格を取るには時間もお金もかかるので資格手当があります。残業代はすれば精神的なストレスというコストがかかるのでその分のお金を上乗せしているだけなのです。お分かりでしょうか、給料を稼ぐために残業するというのはよく聞きますが、それによって精神的負荷が増大することのデメリットを考慮していません。
労働力の価値とは、仕事を行うためのスキルを身につけるために支払った費用も含まれます。ですので、労働するために必要な経費がかかる仕事は必然的に給料が高いのです。医者の給料が高いのは医者になるまでに莫大な費用がかかるからです。命を預かるからとか重要で難しい仕事だからとか、社会的に必須な仕事だから、というわけではないのです。
仮に社会的に必須な仕事や難しく危険な仕事だから給料が高いというなら、介護士や教師、鳶職などはもっと給料が高くても良いはずです。社会的必要性や労働のリスクは一般的な企業の事務職よりもよほど高いのですから。
労働力の価値とはその労働力を生み出すための労力で決定されます。医者は長年の勉強や研修などが必要ですが、スーパーのレジ打ちやレストランの接客、配送業者などは特段労働力を提供するのに膨大な費用はかかりません。だから労働力の価値も低く、結果として給料が安くなるのです。
どんなに頑張っても、どれだけの成果を出しても、明日また同じ程度の仕事ができるのなら労働力の価値は変わりません。労働力を維持するためのコストはあまり変わらないのですから。そして、労働力を使用価値の観点で考えてみると、使用価値は企業がその労働者を「雇い続ける気になる」という価値です。労働者からすると「継続雇用してくれる」のが使用価値なんです。
カレーの例えでもお話ししましたが、使用価値(カレーの味)がどんなに高くなったとしても、一皿に10万円を出すようなお客さんはいないでしょう。つまり使用価値と実際の値段は正しく連動するわけではないのです。少しプレミアムがつくといった程度です。
ですので、営業成績をたくさん出したからと言ってその成績に基づいて給料が変動するわけではありません。年収の2倍稼ごうと3倍稼ごうと、給料が2倍3倍になるわけではありません。商品の値段決めは価値と使用価値で決まります。労働力という商品にとって、使用価値とは会社側のメリットであり、給料は価値によって決定されます。そして、その価値は労働を続けてもらうための必要経費レベルだけです。
少ない給料の現状を打破しようと、例えば残業時間を増やしてもストレスが余計に嵩みます。そうなればストレスを発散するためにより多くの出費が必要になるかもしれません。これではあまり意味はない。役職についたりしても同じです。給料は上がりますがストレスレベルが上がるのは同じなのです。結果は変わりません。
年齢を重ねるごとに給料が上がっていくのも、歳をとると出費が増えるからというだけです。結婚していれば家族手当が出ますが、あくまで家族を養うための出費であり、それでもってより豊かになれるわけではありません。
資格をとってもやはり同じです。既に説明した通り成果をよりあげたところで給料に反映されるものはわずかです。直ちに生活がより豊かになるわけではありません。転職のためと言っても、果たしてその資格がなければ転職出来ないものでしょうか。国家資格などであれば分かりますが、民間の資格などはあくまで補助的なもので、あったらマシ、程度です。
まとめ
長々と説明を続けてしまいましたが、シンプルに要約すると、
「雇われ仕事では豊かな生活は送れない」
ということですね。給料は会社にとって都合の良い飼い殺しのための金額しか支給されないということをマルクスの資本論にある価値と使用価値を用いて説明しましたが、こういった経済学的な理屈でも説明できるということでした。
要は、頑張ったって報われないのが雇われ仕事です。
ただ、じゃあ真面目にやらないでいいや、という話でもありません。なぜなら、あなたが最低でも年収以上の稼ぎをしてくれないと、そもそも企業は雇う意味がなくなってしまうわけですから。使用価値は提供しないといけません。ただそれ以上はあまり給料に跳ね返ってこないよ、ということです。
FIREシリーズの記事でも書きましたが、雇われ仕事をする際にはあくまで実質時給を最大化するよう努めた方が良いわけです。ただの雇われ仕事にそれ以上の意義を見出しても仕方がありません。いわゆるブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)です。給料のためと割り切りって、必要以上の残業代も成果も求める必要はありません。それは実質時給を下げるだけですから。
何が大事なのか、改めてよく考えてみましょう。本当に大切なのは人生を有意義に過ごす時間なのですから。
コメント